「死せる詩人の会」が、現代。
登場人物たちが、この活動をしていく中で、「人はいつか死ぬ。だから今を生きる」という事を考え、行動し、大人になって行く過程の青春映画。
ロビン・ウィリアムズは、なんといいますか、確固たる独自の考えを持ち、信念を貫き、まっすぐに生きている人物の役が、多い気がします。
これも、そのひとつなのかなぁ とか。
いい役者さんでしたよね・・・・。
英国には、優秀な男子が通う全寮制の学校があるんですねぇ。
日本には、そういうのあるんでしょうか?
なにせ、田舎者なので、学校は、近所の学校に行くしか選択肢はなかったよ。
そういう世界があるかどうかも考えた事もなかったなぁ、そういう頃はなぁ。
映画をみていると、そういう場所での青春(?)映画が結構あって、そこでそういうものがあるのだ と学習した カンジですかね。
あれね。
文化が違うからね。色々ね。
名門校に通わせるのは、親にとっても大切な問題なんですね。
自己顕示欲にしか見えなかったりもするんですけれども。
よく、「祖父の代から、家の男子はこの〇〇名門校の出身なのだ」と、息子に言い聞かせている親父様が出て来たりします。
古き良き時代、貴族は貴族としての生活がなりたっていた時代はどうあれ、
現代に生きる若者たちは、もちろん、自分のビジョンが親と同じであれば、そうそう抵抗することもなく、従順に、親の敷いてくれた道を歩み続け、親子ともども幸せに暮らす事ができるのだろうけれども、そうでない、自我を持った若者は、自分が親のコピーでないことを知っている。
親が、ああしろこうしろと、言えばいう程、逆のことをしようとしたり、自分の道を進もうとして、親と対立する。
でもさー。
人生は、個人のもの ですよね。
親ができなかったこと、を、子供に強いるっていうのは、どうなのかと思う。
親が子供の未来を決めるってのも、どうなのかと思う。
それを言えるのは、今の世の中のおかげなのかもしれないけれども。
過去の歴史を紐解くと、子供というものは、親の駒とみなされてる感が強いけれど・・・
子供の未来ってのは、開かれているのだから、どんな可能性だって秘めているのだから、
あーだ、こーだ言わず、やってみさせてあげればよいではないでしょうか
と 思います。
実際、やってみないとわからない事も多いと思うし、やるにしても、徹底的にやらないと、何がどうなのか、理解できないと思うの。
足枷にならないようにしてあげてほしいなぁ 親やら兄弟やら先生やら、周囲の人々は。
好きな事なら徹底的に追及していく集中力あると思うもの。
脱線しましたが。
「詩」を通して、抑え込まれてきた自分自身の感情を解き放つ。
人はいつか死ぬ。
今を生きよう。
学生たちは、キーティング先生の、そんな教育に、心の目を開かされていく。
周囲の評価という枷に囚われていた彼等は、本当の自分を見つけて行く。
最後、キーティング先生に扇動された とかいう話が出てくるけれど、
扇動されたのではないと思う。
共感したのだ と。
自分の心に嘘をつかない行き方を、学習したのだ と。
メンツやら体裁やらばかり整える行き方を良しとするか否か。
もちろん、どちらかに極端に偏ると、人生生きていきづらいのだと思う。
両方を知った上で、その都度何を選択していけるか ということも大切なのだろう。
自殺してしまったニール。
キーティング先生や、同級生と話をするように、本当の自分を両親に晒しだす事ができなかった。
高圧的な父親と、息子を愛してはいるけれど、夫に逆らう事はしない母親。
二人の前では、心の声を飲み込むしかなかったニール。
自殺してしまう程に、絶望させたのは、両親なのに、両親は、責任を学校に押し付ける。
キーティング先生が悪いのだ と。
彼が、あんな事を教えなければ、息子は死ぬコトもなかったのだ と。
救いを求める親の気持ちとして、わからんでもないけれども、
この映画の中では、原因はあんだだよ! と言わざるを得ない父親。
なのに、その父親の言い分が通ってしまう学校。
友人たちも、それぞれの親から強要され、キーティング先生のせいだという書類にサインさせられる。
だけど、彼等は、ニールを知っている。本当のニールを。ニールの気持ちを。
ラストの机の上に乗って、キーティング先生を見送る「死せる詩人の会」のみんな。
不覚だわ。
涙でちゃった。
ラスト知ってたくせになぁ~。
人はいつか死ぬ。
死ぬ時に、生きていたのだということを実感として知るのだそうです。
だからこそ、今を生きるのだ と。
ニールがウィルソン先生(Dr.HOUSE)で、ちょっとビックリした(´・ω・`)
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