積読崩し 第5弾。
連続してレイ・ブラッドベリですね。
今度は長編~。
これは、刺青ーより、更に前に購入してたようです。
2013年3月に手に入れ、熟成されていました(´_ゝ`)
ホントに、そんなんばっかりですが。
1953年の作品ですが、SF作家の脳味噌がスゴイのか、ブラッドベリがスゴイのか。
2016年現在。
本は、まだ存在しているし、禁書にも焚書係がいたりもしないけれども、
TVやら、ネットやら、MP3やら。
情報が溢れていて、自分で選んで情報を集めようとしなくても、勝手に情報の方が流れ込んでくる時代になってる。
ええ、TVとしゃべってますもん。ワタシ・・・・・
「て、テレビは友だちだよ!」
位に・・・・・
だから、昔むかしなら、知らずに済んだかもしれない事を、漠然と知っている。
ただ、詳しく知っているかと言われると、答えられない。
なんとなく、知っている。
そういう「知ってるような気がする」情報で、頭の中は溢れかえっている。
ただ、この本の世界とは違い、自ら知りたい、学びたいものを、自らの意志で接種する事はできる。
この本の世界のように、自ら考える事をしないよう、できないよう、情報を溢れさせ、その情報の通りに人間がコントロールされる事になったら、そこに生きる人間は、本当に人間なのか。
自分の生きてきた過去すらも、忘れ去ってしまうほどに、情報操作された世の中。
世の中に、全く疑問を持たずに生きる事とは、どういう生き方なのか。
そこに、生産性はあるのか。
いや、社会は「生産」を求めていないという事なのか。
本というものは、自らの空想を(妄想か?)を、掻き立ててくれる。
文字で表現された事を、読んだ人それぞれが、自らの頭の中で、想像し、視覚化し、音も匂いもそれぞれが再生し、そこから更に、行間に思いをはせ、終わりを終わりととらえず、それぞれに続いていく。
映像は映像で良いのだけれど、文字だけであらわされているものは、何千、何万、何億通りにも解釈できる楽しみがある。
もちろん、楽しみだけの為に、あるのではなかったりもするのだが。
しかし、やはり、本をなぜ読むか と聞かれたら、先が気になるから読むのだものなぁ・・・・
本というものが、世の中からなくなってしまったら、
本を読むという行為が、禁止されてしまったら、
考えると恐ろしい。
歴史的にも、「発禁処分」になった本ってありますもんね。
なんで「発禁処分」になったか というと、結局政治につながっていくのかな。
情報操作 の 走り なんですかね。
政治的権力を握った人間にとって、都合の悪いものが「発禁処分」になった。
そして、その著者も迫害されたりしたんですよね・・・
言論の自由とはいうけれど、どうなんだろう と思わされる事も、現状ありますもんね。
スパイが、凡人のブログとかチェックしてるってホントですかね?
それだけ、人間の本来の考える力 というものは、物凄い可能性を秘めているということなんだと思う。
考え始めると、怖いコトだらけになってきたぞ・・・・・・
なりたくない職業=焚書係
無理だわ。
本を捨てる事のできないワタシには、絶対焚書係は無理・・・
並べて眺めるのが至福・・・・(並べるだけじゃなくて読め>自分<じゅ、順番に読んでるもん!)
もし、そんな世界で、焚書係という仕事が実際にあったとして、自分がその職についたら、
燃やす前に、いちいち中身確認したくなるだろうから、仕事になりませんね!
脱線して終了。
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